2021-10-11 第205回国会 衆議院 本会議 第3号
遡れば、石橋湛山の「小日本国主義」であり、「決して軍事大国を目指さず、経済成長至上主義に陥らず、美しい地球を継承させるため、国内外で積極的な役割を果たす平和国家」です。 中学生の時に見たユージン・スミスさんの水俣の写真は衝撃でした。人の命よりも経済成長を優先した、あのようなことを二度と起こしてはならないとの思いで、当選後「水俣」の問題にも取り組みました。しかし、未だに道半ばです。
遡れば、石橋湛山の「小日本国主義」であり、「決して軍事大国を目指さず、経済成長至上主義に陥らず、美しい地球を継承させるため、国内外で積極的な役割を果たす平和国家」です。 中学生の時に見たユージン・スミスさんの水俣の写真は衝撃でした。人の命よりも経済成長を優先した、あのようなことを二度と起こしてはならないとの思いで、当選後「水俣」の問題にも取り組みました。しかし、未だに道半ばです。
その後も、しかし、石橋湛山総理は、中国に宛てた手紙の中で、できる限り国境の障碍を除去しという形で、「碍」を、やはりさすが文化人ですから使っていらっしゃったわけですが、その後、障害者団体の皆さんなどから、「害」は、害虫の害、害悪の害、そういうふうに言われるのは嫌だということで、議論してくださいということで、文化審議会国語分科会で議論されて、二〇一〇年に、しかし、「碍」は採用されなかった。
さらに、一九五九年、石橋湛山先生が周恩来さんに手紙を書き、その中で、できる限り国境の障碍を除去しと、この障碍は「碍」を使って、できる限り国境の障碍を除去しと、「碍」を使って手紙を書き送っています。 私、そもそも、一九四六年に、当用漢字表になぜ「碍」を外したのか、「害」しか使えないようにしていったのかということがすごく疑問なんです。なぜなら、「害」にいい意味はないからです。
ただし、やはり、漢字圏の人たちに「害」の字で障害という言葉を読ませるというのは、大変に日本という国を誤解させることにつながるのではないかということで、実は大臣、一九五九年に、石橋湛山先生が周恩来さんに石橋三原則ということで書簡を送っているわけですけれども、その三原則の二に、経済において、政治において、文化において、できる限り国境の障碍を除去し、お互い交流を自由にすることというふうな書簡を送っているんですけれども
そういう観点から、私のスライドなんですが、最初に、石橋湛山という有名な政治家の方が戦前に書かれた文章を引用させていただきました。 日本の農業はとても産業として自立できない、ゆえに保護関税を要する。低利金利の供給を要する。今回であれば、収入保険を要するということだろうと思います。
ところが、石橋湛山のように、農家は助けるべきものだけじゃないんだ、みんな自立していこうというふうに思うと、輸出も考えて、まさに石橋湛山が言った小日本主義の、貿易によって日本は栄える、そういうセーフティーネットもあるのではないかというふうに私は考えております。
石橋湛山さんです。戦後、総理になられました。小日本主義というのを唱えました。大国主義はいけないと。僕は彼の本を数冊読みまして感動いたしました、大分前ですけれども。軍事大国主義に対して小日本主義を唱えたんです。 ですけれども、今、日本は経済大国主義に陥っているんだろうと思います。グローバリゼーションということでどんどん出ていく、貿易も投資も。
そういう中で日本は、いかに経済的利得も求めながら、このココムあるいはチンコムといったものに対して、鳩山内閣のときに、例えば当時の石橋湛山通産大臣は、特認制度を使って中国に対する輸出を少しでもやっていくと。ところが、アメリカはそこのところがちょっとやり過ぎじゃないかと。
石橋湛山先生、河野一郎先生、松村謙三先生、三木武夫先生、こういう方々が日米安保条約の採決のときでさえも棄権や欠席をされております。 そこで、最後に外務大臣にお尋ねしますが、この戦後政治における宏池会の果たしてきた、いろいろな外交的な岐路がありましたが、その意義、そして、今回の法案、本当にこれでいいと思いますか。責任ある立場にいらっしゃる大臣のお考えをお聞かせください。
いろんな意味で、権力が自ら自分を縛るというところに権力の自己抑制、自己拘束の発現があるのであって、是非、皆さん方、国家権力の重要な部分を担当されている方は、まさに今までの政治家たちの自分に対する抑制的な表現、例えば自由民主党の先輩政治家が非常に抑制的なことを言っておりますけど、私、是非、石橋湛山自由民主党第二代総裁、内閣総理大臣の岩波文庫の評論集を読んでいただきたい。
石橋湛山であります。これは総理兼務であります。二代目、石橋湛山。正力松太郎さん、そして石橋湛山。三代目、ちょっと僕は正力さんかなと思ったんですけれども、途中、宇田耕一さんという、これはなかなかの大物でしたけれども、宇田耕一さんで、また正力松太郎さんが事実上三代目を務めて、四代目は三木武夫。大臣の御地元である中曽根康弘さんも五代、こういうことでありますから。
ちょうど、三十二年といいますと、その前の年に鳩山総理が辞任され、そして石橋湛山内閣ができたんですが御病気になられて、二月に岸内閣ができたときです。 この中で、こんなのは読むつもりはないんですけれども、加藤シヅエさんがこのMRAの、フィリピンのバギオで第一回のそのアジアの会議があった、そこに出席してきたことを報告しているんですね。
まず第一点は、石橋湛山先生は、我が郷里の生んだ唯一の総理でございます。そういった意味では、私も石橋湛山先生を目指して政治活動をしてきた人間でございますので、その石橋湛山先生の言葉というのは十分私も心得ているつもりでございます。大変リベラルで、経済通で、そういった意味では、私もそういう政治家になりたい、そう思ってやってまいりました。
そのときに、石橋湛山、東洋経済新報ですね、大正十年の「大日本主義の幻想」という社説があります。石橋湛山はここで、実に見事な論理でもって、堂々と国策の非を鳴らしております。私は、この石橋湛山の主張が正しいかどうかということを今ここで言いたいわけじゃないんですよ。けれども、国家の向かうところを左右する重要な国策を決めるに当たって、反対する意見にも耳を傾ける、十分議論を尽くす、説明する。
石橋湛山、小日本主義を唱えて戦争に反対された。和田博雄さん、農林水産省の局長ですよ。企画院グループ事件というので捕まったりしています。それから、反軍演説をされた斎藤隆夫さん。それで、この人たちの東京近県云々というのは、ちょっとこれは間違いがあるかもしれません。吉田茂さんは、何か、耕余義塾という聞いたことのないところに行っていられるんですね、私塾で全寮制の。そして世襲はこれだけ、一名。
需要をつくることが大事だと言ってさんざん本を書いて、何か石橋湛山賞をもらったとか何か、聞くとそういう話になってくるんですが、二〇〇一年から経済財政諮問会議の民間議員におなりになられて、いろんな経済学者の方に聞くと、あの方は変わられたという話が非常に多いんですよね。
日本においては、石橋湛山も大正時代にそういう話をしております。諸外国においては、例えばイギリスのブライス、フランスのトクヴィル、彼らも二百年ほど前からこういう指摘をしているわけであります。しかし、残念ながら、今の日本の自治体は、三位一体改革によって本当に財政的に痛めつけられた上に、さらに、貧すれば鈍すというんでしょうか、非常に苦しい状況になっているわけであります。
その間に石橋湛山さんがちょっといまして、次の岸内閣は日米安保の改定をやった。政治がぎくしゃくしてくると、次の総理大臣池田勇人、所得倍増を唱えた。所得倍増で高度成長を進めたら公害とかひずみが出てきた。次の佐藤内閣では、たしか昭和四十二年に公害対策基本法をつくる、あるいは環境庁を四十六年に設置する。そして佐藤内閣は、いわゆる台湾寄りだった。 そうしたら、次の田中内閣は日中国交回復をやった。
ですから、余り大国意識は持たずに、私は昔、石橋湛山さんの小日本主義というのにほれぼれして、「農的小日本主義の勧め」という本を書きました。小というのはちょっとしみったれていてよくないかもしれません。ですから、そういう点では、ミドルパワー、中進国、その役割でもって、特徴ある役割を国際社会でも果たしていくということが私は必要なんじゃないかと思います。
○参考人(北岡伸一君) 石橋湛山という近代日本最高のジャーナリストが総理大臣になりました。ですから、例が皆無ということはないと思います。 ヨーロッパの例で、ああすごいなと思うのは、人材供給の面で、相当な地位の人が相当な力、学識、文化を持って国連の高位高官になることがございます。
○那谷屋正義君 今、統計の歴史を振り返る中でふと気が付いたことがあるんですけれども、それは吉田茂それから石橋湛山以外に統計の歴史にはなかなか政治家というものが登場してこなかったということであります。統計は、先ほどお話ありましたように政治的に中立でなければなりません。これは原則中の原則であります。統計は時の都合で政治や行政に左右されてはならないわけであります。
私は学生時代に、早稲田ですけれども、私淑していた、私淑というか、その本を読んで尊敬を申し上げておりました石橋湛山先生は、日米中ソ平和同盟ということをおっしゃっておられました。当時は全く相手にされなかったそうでございますけれども、今でいうと日米中ロ、さらにそれに韓朝、将来は日米中ロ韓朝平和同盟をつくるんだというぐらいのビジョンをしっかり持ってやっていかなきゃいけないんじゃないかなと。